私が何故開業したのか 最終回

私が何故開業したのか?

それは、多分挫折まみれの人生だったからではないでしょうか!サッカー選手になれず。今考えたらなれるわけはないと思いです。練習量も足りなかったし、プロになる志しが低すぎる。つまり、子供ながらでも、考える頭を持ち合わせていなかったのです。自分に甘過ぎる。

社会人になってもそれは、変わっていません。自分に甘過ぎる。だけど、生きて行くには一般人は働かなければ生きていけない。

そうやって、私はきっと自分の居場所を見つける為に何度も転職し続けたのでしょう。自分は何に向いているのか。どうやったら社会貢献できるのか。

そうして、辿り着いたのが、今の自分の店です。

そこで最初の問いに戻ります。「私が何故開業したのか?」それは、お客様によく聞かれるのですが、私は介護のお仕事と一緒だと思うんです。人の身体に触ると言うことはどういうことなのか?他人の身体に触れると言うことは、より自分の気持ちがお客様に伝わると言うことです。だからこの仕事は、難しいですよ。いくら良い技術を、持ち合わせても相手に伝わらなかったら意味がない。その人を今の状態より良くしようと思いはお客様に伝わると思うのですよ。

この価値感は、ほん私の中の一例でしかありませんが、

『私が何故開業したのか?』

 

の答は私の価値感がどれくらい世の中に通じるか?今まで人生を遠回りしてきた分、私は何かを得ていると思っているんですよ。整体屋を通じて私の責任ある立場で開業して、何処まで自分の価値感が通用するかその答を生涯を通して導き出したかったんです。それが開業するきっかけとなった志しです。

よく、ビジネスは情に流されたらいけないと言われますが、私はその考えに逆らいます。感情を全面に出して私はこのあみもと屋整体という店を生涯営業していきます。

1話から読んで下さった全国4名様のファンには読んで頂き大変恐縮でございます。
これにて失礼させて頂きます。

『私が何故開業したのか?』 完

あみもと屋整体
網本孝太

私が何故開業したのか  九話

介護のお仕事を辞めて、私は学校に行きました。

学校には、三年間行きました。夜間勉強して、昼はアルバイトをしていました。今となってはこんなことをよく嫁が許してくれたなぁと、今思いかしたらそう思います。でも、その分一生懸命やりました。勉強も、仕事も!

三年間、勉強をして私は難なく柔道整復士という資格を取得しました。達成感があったものの、次は就職先だということで、喜んでいるだけではいられませんでした。

私の性格的には、人から言われるのが嫌なので多少給料が、安くても自由に出きるところを探しました。どうせ二、三年先には開業するので自由にさせてくれるところなら何処でもよかったです。その分就職してからは、もっと勉強しましたけどね。

とにかく、修行先で一番になろうと思いましたが、それは案外簡単でした。就職して半年後には指名が一番多くなりました。ただ、それだけでは私は満足できず今度は指名の数とお客様の満足感を得れるように目標設定しました。指名の数は目標をすぐ達成できましたが、お客様の満足感は全然満足行きませんでした。もっと、もっと勉強しなくてはならない!開業するには!止まらぬ欲求が私を悩ませました。やがて、「開業は、いつするの?」とい自問自答が私の中で繰り返されるようになりました。

私は悩みました。開業するのに物件も決まっていない。施術の技術も満足できていない!資金もどれくらい貯めればいいのかわからない!そんなことをずっと悩んでいる内に、物件が先に見つかりました。もう開業するのならここしかないと言わんばかりの物件でした。

しかし、課題は山ずみでした。施術の技術も自分では納得いくレベルではなかったのでしたが、自分が勉強し続ける意思だけは固かったので、それは問題ないなと次第に思ってきました。今でもそうです、一生勉強しつづけます。

資金の問題もまあ、何とかなるなと思い即、開業の準備だと思い頭を切り替えました。
ここまで来るのに時間がかかりました。まず、自分のやりたいことはなんなんだろうかっというとこからここまでかかってしまいました。

でも、決して1人でここまでやってこれたとは、全く思っていません。回りの人に数々お世話になりましたが、その中で1人だけ挙げなさいと言われたらやっぱり悔しいけど、
奥さんですね!

九話 完

次回最終回だと思います!

あみもと屋整体
網本孝太

何故私が整体を開業したのか 第八話

介護のお仕事は、五年やりました。その間に結婚!子供を1人設け今までにないくらい順風満帆な生活をしていました。まさか、嫁さんも介護の仕事を辞めるとは思っていなかったでしょう。

介護の仕事は、大変です。皆さんが想像しているよりも、大変でした。周りが皆敵に見えました。利用者様のためにやっている仕事なのにいつの間にか、職場の人間関係の問題になってしまう。見つめている矛先が変わってくるのです。

多分何処の介護施設でも一緒ではないでしょうか。

利用者様の為にあれこれやっていたことが、他の職員によると「余計な仕事をふやすな!」ですから。全く誰の為に仕事をやっているのか。

それと、何処の業界でもそうでしょうが、『アホな上司』すみません。口が悪くて!失礼しました。

そんなこんなで、奥さんにも凄く迷惑をかけながら介護のお仕事を辞めました。そこで、私は考えました。私は今までに何をしてきて、何を思ってきたか!これを介護では自己覚知といいます。つまり、自己覚知とは簡単にいえば、自分を知るということです。
私は考えました。自分について!

結果私は情に厚いということが、長所であって短所であると。それと、組織の中では自分の力は発揮出来ないとも思いました。だから、自分の会社を起こそうと思ったのです。

そこで、一から勉強するようになったのですが!きっかけは学校のホームページでした。

そこのホームページを見て学校に36歳から通うことになりました。

8話完
次回 開業する前に修行

あみもと屋整体
網本孝太

何故私が整体を開業したのか 第七話

三年間、ブラブラしていましたよ。その間、本当に自分で何をしたらいいのかよくわからない時期におました。リーマンショックの事もあり更に仕事の選択肢が少なくなっていく最中、1つの希望の光が自分に照らされたような気がしました。

それは、介護士のお仕事でした。まず、どうやったらなれるのか、調べました。

そして、面接を数社受けると、全部採用されてしまい戸惑いましたが、晴れて介護のお仕事につくことができました。久しぶりの正社員のお仕事に私は燃えていました。この頃からですね。自分にやるべき事が少しずつわかってきたのは。

自分は感情的な人間だと認識してきました。それが、介護のお仕事マッチしてとても楽しくお仕事をさせて頂いていました。

しかし、やがて不満も多く抱える事になります。介護と言う仕事に情熱を燃やしていた自分でしたが、回りとの温度差が強すぎて、次第に私は孤立するようになりました。利用者様の生活を支えると言うことは、その人に何がてきるか、自分が何をするべきか、利用者様のお力で一人で対応できるか等そこの判断が凄く難しい仕事なのですが‥‥‥

他のスタッフは、とにかく仕事をいかに楽にするか!どれだけ効率よく時間内に仕事を終わらせる事ばかりを考えていましたので、自分との仕事の考え方とえらく異なる事ばかりでした。

次第に自分対他の職員で口論がつきない日々を迎えていきました。あるいは相手が上司だったりすることも、多々ありました。毎日口論がつきないことから、その介護施設を追われてしまいました。その間5年の月日が流れていました。

何故私が整体を開業したのか 第六話

営業を、辞めて4年働いたので、1か月くらいは休んでもいいかぁと思い休みました。長い休みを満喫していますと、後1か月位いいかぁ、と思いながらドンドン休みが延びていきました。私は深い闇へと潜って行く気分でした。たまにヤル気を出して、面接を受けるも落ちまくる日々でした。そりゃぁそうですよ。当時の私は何も魅力がなかったんですから。

もう、気分は深海にいるみたいでした。

職も転々として、長く続く仕事はありませんでした。そんなことを3年やっていました。

第6話 完

何故私が整体を開業したのか 第五話

大学生活では、チャランポランナ事をしていたのに、よく就職できたと思います。本当に社会人一年目は、他社と比べても平均なスタートをきれたと思います。

しかし、社会をなめてました。サラリーマンをなめてました。ましてや、今まで何も頑張った事がない私には何をすればいいのか、さっぱりわかりせんでした。営業部に配属になり売上が伸ばせるわけもなく、何をするのもすぐあきらめてしまいました。究極的には売上を上げるのも諦めてしまい、仕事をサボることしか考えなくなりした。

そうして、売上が上がらないのは他人の責任だと思い、ついには何をしても上手くいかず仕事を4年で辞めてしまいました。

当時先輩から辞めるなと、言われ続けた事は今では十分に理解できますが、当時の自分はトンチンカンな世間知らずのお坊っちゃんでした。

何故私が開業したのか 第四話

ここまで、ずっと負け組でした。

大学に何とか、入れました。大学生活は、遊びました。麻雀、パチンコ、合コン。ザ!大学生活を送ってきました。バイトに明け暮れひたすら遊ぶお金を作りました。

大学の出席日数は、都度ギリギリでサボりグセはこのころついてしまい、何とか卒業できました。就職も、何とかできてサボった割には結果はいい風にでた内容でした。

でも、勉強はしなくてもいいけど、やはり大学生活ではもっと先生と、話し合いを討論をしとけばよかった。今思えば楽しい授業なんてたくさんありました。

僕が、一番覚えているのは、哲学の授業です。この授業は、先生も学生も関係なく、課題に対しての討論会をしてました。【偶然と必然について】偶然は、あるか無いかという討論会でした。先生は全ては必然の中にあるのではないかということに対して、誰か反論がありますかという先生の問いかけに対しして私は直ぐに手を上げ発言しました。

「偶然は、あると思います。その証拠に偶然という言葉が世の中ではっきりできているじゃないですか。」

この、私の発言に対して誰も言い返す事はできませんでした。先生すら何も言い返す事は出来なかったようです。

でも、大学生活の成果をはたったこれだけ。四年あってこの一言だけが僕の成果であって後、ただ遊んだ日々しか残っていません。

今もし、やり直せるならもっと、先生、学生と討論できたらよかった。そんな思いです。その討論をすするためには知識が必要で本を読まなければ討論はできませんけどね。
知識は裏切りませんから。

何故私が開業したのか  第三話

そのまんま、サッカーだけを見ていた私は勉強もせずに行ける高校は限られた高校へ。サッカーでも全然成果を残せずに結果そのまま高校生活へ。

高校三年間もサッカーを頑張っろうと思っていましたが、サッカーはもういいと思いもうサッカー部員には入りませんでした。

高校生活は、楽しくなかったですよ。

あーあ、青春の日々よってよくいいますが、そんなもの一ミクロもない高校生活でした。
サッカーも辞め、勉強も出来ない私はひねくれた青年になったのかもしれません。

それでも、たった一つ頑張ったことは新聞配達を三年間頑張りました。

高校生活以上
思えば、一番日の目に当たらない時でした。
第三話特にエピソードなし

何故私が整体を開業したのか 第二話

小学生最後の最後に負け組と期した私でしたが、これは、まだまだ序章にすぎませんでした。その後も、サッカー愛が強い自分はサッカー以外なにも、受け付けませんでした。例えば、勉強だったり、ゲームだったり、そんなことは殆ど記憶にございません。まるで、勉強をしなかった事を今になって後悔するも、未だに数学や理科なんて殆ど社会に通じないと思っています。そういう専門的な仕事につけば役に経ちますが。私が一番後悔しているとこは、本を読んでこなかったこと。これは、社会に多いに役にたつと思っています。知識を入れておくと言うことは、強みになる。まあ、そんな話はまた今度します。

サッカー愛に魅いられていた私でしたが才能がないため、中学生になってもやはり3年間ベンチでした。せめて、サッカーだけでも上手かったらまた人生は変わっていたのかもしれませんがそれさえも負け組でした。

ということで、一切取り柄がない人間でした。それでも、サッカー選手になる自信が当時はあったんですが本当に無知な少年でしたよね。

それもこれも、本を読んでこなかったから、世界が狭かったんですよ。
そうして、中学時代もまた敗北に終わるわけです。

第二話 完
網本孝太

何故私が整体を開業したのか 一話

何故私が整体を開業したのか!
第一話  作 網本孝太



遡ること、私が小学生の頃どうしてもサッカー部に入りたくてたまりませんでした。しかし、親の都合もあり、私は小学五年生になるまでサッカー部に入ることは許されませんでした。小学五年生になり親の許可も出て念願のサッカー部に入ることごかなったのです。これが私の人生において失敗だったのか、成功だったのか、今ではやや失敗よりだったようなそんな気がします。

サッカー部員が少ないこともあり、私は即レギュラーになれました。ここまでは、よかったんですよ。ここまでは………

ここで私の、第一回目のターニングポイントがありました。

小学六年生二学期私は転校することになったんです。こんな中途半端な時期に。転校生というのは、過大評価され、メチャクチャ上手いサッカーする子が転校してきたとたちまち噂になりました。しかし、蓋を開けてみれば箸にも棒にもかからなかったのです。転校先の小学校は、サッカー部が強かったのです。私は即ベンチ。噂だけが先行して私のサッカーの実力は一番下手な方でした。サッカー部員の上手い事。そこで、たちまち噂は逆転して私の評価は逆転しました。その頃私はサッカーに全集中していたので還付なきものにされ負け組になりはてたのです。負けました。大敗でした。

第一話 完